育児休業を取っていますが、それは決してとても子どもが好きだったわけではないんです。なんとも思っていなくて、どちらかというと苦手だったというのが正しいところです。そして、私の生涯に子どもは不要だとも思ってました。欲しいとも思いませんでした。今では親バカですけどね。息子はたいそう可愛らしいです。
育児休業を取ったのはこちらの記事でも触れていますが、自分かわいさが元々のきっかけなんです。
ということで今回は、
そもそもなんで子どもが好きじゃなかったの?
じゃあなんで子どもを持とうと思ったの?
についてお話ししようと思います。
子どもが苦手だった理由
特にございません。けれども、なんでみんな「かわいい」というのか理解できなかったんです。成長の一過程・一カテゴリとして、「子ども」というものがあって、その発達段階であれば、こういうものなのではないか?という風に捉えていたんですよね。
「その年代ならそういうこともするだろうし、そういう表情や態度も取るだろう。」ぐらいの。
だから、お店や電車でうるさい子や暴れる子がいても、苛々はしなかったです。
ただ、話しかけてくる子どもや、明らかに困っている子どもと接するとき、傍からみて不審者扱いされるんじゃないだろうか?と考えてしまい、接し方がいまいち分からないことがあったんですよね。だから苦手だなと。
翻って「自分の子ども」という存在に抱いていた想い
それが、自分の子どもになると話は別です。同じ「子ども」でも、「自分の」がつくと別物。他人事ではないことになり、自らが関与すると考えると憂鬱で仕方ありませんでした。
イベントが増える
基本的に吝嗇で物ぐさなので、自分のイベントごとも極力少なく済ませたいのです。
しかし、子どもができると様々なイベントが待ち受けているわけで、それが面倒だなと思っていました。現に子どもが生まれた今でも、面倒だなと思ってしまっています。
「お七夜」はやらなかったし(NICUに入院していたのでできなかったというのもある)
「お宮参り」は行ってませんし(これは後で行くつもりだけれども)
「お食い初め」もなんだよそれという印象しかありません。(やるんでしょうけど)
お食い初めやりました!
やったらやったで楽しし、やってよかったと思うんですけどね。どうしてもやるまでが大変なんです。長い時間、その「事」に意識がとられていっちゃうので。
自分のDNAを受け継いでいる
これは碌なものではないと。ある種自分の分身ですから、愛せるのかな?と。
捻くれてるし、運動は基本的にだめだろうし、確実に苛められるだろうし・・・と考えると全く愛せる自信がありませんでした。
お金がかかる
子どもはお金がかかります。入学金に制服代に「なんじゃそりゃあ」ってぐらい。住まいも追々広いところに住み替えないといけないでしょう。そのためのお金を齷齪働いて稼ぎ、長い期間養っていける自信はございません。
基本的に仕事はできるんだけど仕事をすることがどうにも嫌いなんです。
稼げるときに自分一人が生涯暮らせる分稼いで、早めに引退して田舎に隠居するのが元々のライフプランだったので、結婚した時点でそれは軌道修正しざるをえなくなったのですが、再度の軌道修正を余儀なくされると思うと、ねぇ。。
何故、子どもを持とうと思ったのか?
ならば何故子どもを持とうと思ったのかと問われれば、
一言で済ますと「妻が子どもを欲しがったから」です。
最愛の人の願いを叶えられなかったら、人生をやっている意味がないですからね。いや、本当にその一言でおしまいです。
(子どもを持つ)覚悟?覚悟ならないこともない。
私の中のK(こころ)はこう答えてくれましたから、それで済みました。
決めてしまえばあとはそうなるように努力し、その方向で準備をすればよいと切り替えるだけでした。
子どもができた今では?
子どもができて変わったか?と問われれば、自分の子どもは好きです。それははっきりと言えます。でも、子ども全体が好きか?と問われれば、それは今までと変わらないと感じています。
それは触れ合っている時間も関係しているのかもしれません。自分の子どもは家族として認識できているから好きなんでしょうね。
最近、妻には「(子供が)あなたと遊んでいるときの方がよく笑っている!」と嫉妬されるのですが、
他の誰よりも子どもに好かれたいという気持ちもなくて、子どもに求められるのであれば、全力で応えようという想いだけがある感じです。(子どもにとっての一番は妻でしょうし。)
まとめ
なんだか我ながら少しドライだなとは感じるのですが、率直な気持ちを言葉にするとこんな感じなんですよね。
だから、タイトルのように言われると答えに窮するというか、苦笑いで取り繕うしかなかったんですよね。
捻くれてはいますが、意外と正直な人間なんです。