折り畳み自転車で約160キロ離れた実家に帰ろうとしたときの話。

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あれは2009年の時のこと。当時の私は社会人3年目。実家から出てきて一人暮らしを始めた際に持ってきた折り畳み自転車を全く利用していないことに気づき、その処遇を考えていたのでした。玄関に折り畳んだまま置いてあって、正直邪魔だったので。

 

当時、横浜駅早歩き20分圏内に住んでいたのですが、急な坂が多すぎて自転車に乗ろうと思えないんです。アパートの前の道からものすごい急な坂なんですよ。乗ったの、2回ぐらいだったと思います。

 

 写真は残っていないけど、こんな感じで3段ギアがついた普通の折り畳み自転車でした。

 

その年のGW、忌野清志郎氏が亡くなったというニュースに私の心はかき乱され、「何かしなくてはいけない」という衝動に突き動かされて、何故か「この自転車で実家に帰ろう!」と決意するに至ったのです。青春の残滓を燃やそうとでもしたのか。単なる頭がショートした末の阿呆の思い付きなのか。

 

 

走行計画

スタートは横浜市某所、ゴールは栃木県某所。距離にしておよそ160キロの距離です。「時速15km/hで走ってだいたい11時間。途中の休憩時間を2時間。」という非常に甘い見積もりをし、朝4時にスタートする計画を立てました。

 

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ざっくりとこんな感じのルートを計画。目的地は宇都宮駅ではないけれど、そこから実家のある市町村へと向かう算段でした。最初にルートを見たときは、なんだ全然覚えなくていいから楽じゃん!余裕で行けそう!と思っておりました。実際に走ってみたら余裕なんてなかったですけどね…。

 

ちなみに、道中での写真は1枚しか撮影しておりませんでした。最初に申し上げますけど、想像しているより遥かに過酷だったんです。写真撮る気力もなくなるぐらい。折り畳み自転車はタイヤが小さいから、1漕ぎあたりの推進力も小さいんですよね、本当にしんどかった…。

 

当日の朝

当日は朝3時半に起き、食事を摂ろうとしますが、普段は8時ぐらいに起きているせいか自律神経が失調しており、まったく食欲がわかない気持ち悪さと戦いながら、カロリーメイトを水で溶かして無理やり胃に沈めこむという苦行をいたしました。

 

スタートの前に…

荷物は前日の内に準備しておいたので、あとは折り畳んである自転車を組み立ててスタートするのみだったのですが、組み立て後にパンクしていることに気づき、スタート前に自転車のパンク修理をすることになりました。

 

こういうスプレータイプの修理剤があるんです。道中パンクしたら嫌だと思って買っていたものを初っ端から使うことになる不穏さよ…。

 

アパートの前で作業するとうるさいだろうと思い、少し離れた公園の前に移動して作業していましたが、真っ暗なうえ車通りも疎らで少し怖かったですね。朧気に光る街灯に照らされる自転車と格闘するのは地味にテンションが下がりましたよ…。

 

ようやくスタート

しかし、ここで諦めては清志郎氏に報いることはできない!(直近ベストを聴いてハマっただけのにわかファンなのに)と謎の義務感に駆られて自らを奮い立たせ、スタートを切ることになりました。

 

 時刻は5時、予定時刻から1時間遅れたが、取り返せる!走り出したらテンション上がって止まらないんだろうさ!

 

まずは東京駅を目指し国道1号線をひたすら北上していきます。

 

頻繁に信号につかまる

序盤は下り坂だったのでほどよくテンションは上がり、快適なサイクリングロードだなぁと思ったのも束の間、度々赤信号につかまるんです。「スピードに乗った!止まった!意外と待たされる」の繰り返しでフラストレーションが溜まりました。

 

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スタートt地点から東京駅までの標高ガイド。今ってここまで分かるようになってるんですね。

 

そうして進んで行ったんですが、かなり坂が多いんですよ…。都内に入ったら平坦だと思っていたんですけど、結構えげつない坂が多いんです。

 

国道4号に沿って北上

東京駅の辺りまできたところでおよそ30kmを走破。だいたい7時ぐらいに通過した記憶がございますから、ここまでは計画通り時速15km/hペースでした。そして今度は国道4号に沿って栃木県宇都宮まで北上していきます。

 

ここからは急な坂は少なくなりましたが、その代わり緩やかな登り坂という地獄が待っていました。

 

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東京駅から宇都宮駅までの標高ガイド。これ、地獄でしょう? 

 

 漕いでも漕いでもほとんど進まないんです。祝日だからかローディー(ロードバイクに乗ってる人)の方々も結構いらっしゃって、ビュンと一瞬で抜かされてはあっという間に遠ざかっていく光景を何度も目にしました。

 

そして延々と照りつける日差しが地味に辛い。5月といっても日差しを浴び続けると結構暑いんですよね。日焼け止めを塗ってはいたものの、汗で落ちてしまっていました。

 

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5月なのにこの日焼け。夏休みに決行していたら相当大変なことになっていたなと。

 

茨城県に到達

そしてこの行程唯一の写真撮影ポイント、茨城県古河市に到達します。

 

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少しは感慨深かった気がします。だから写真も撮ったのだろうし。

 

この写真を撮影したとき「ここまで来たら引き返せないな!」と思いましたね。いや、ここまで来なくても引き返せないんですけど、周りには駅も見当たらないところでしたし「自分の足で何とかするしかない」という覚悟めいた感情が湧いてきたのでした。

 

また、「思い付きでとんでもないところに来てしまったな」と思いました。思い付き自体がとんでもなかったのかもしれないですけど。

 

脱水症状になりかける

途中、「山田うどん」なるチェーンを何度も見て、サブリミナル効果のように「うどん欲」が湧いてきたのですが、当時は一人で外食をすることができなかったのと(なんだか怖くて…今でも抵抗はありますが)、「自転車を盗まれたらおしまいだ!」という謎の強迫観念に駆られてしまい、立ち寄れませんでした。一応チェーンロックは持っていたのですけどね…。

 

www.yamada-udon.co.jp

 

その代わり、コンビニで食料調達をしたのですが、走行距離と消費カロリーを考えたら全然足りなくて、あっという間に食料が尽きてしまいました。そういう時に限って、何もない道が延々と続くんです。自動販売機すらない。

 

照りつける日差し、代わり映えしない道のつまらなさ、垂れ続ける汗と限界を超えた喉の渇き。体感覚が徐々に無くなっていき、朦朧とする意識の中「これはヤバイな…」と思ったところで視界にドラッグストアの看板が目に入りました。あの時は本当に「救われた」と思いましたよ。

 

そして尻痛へ

ドラッグストアに立ち寄り、水分と栄養を補給して自転車に跨ったところ、激痛が走りました。全身が疲れていたので初めは何が起こったのか、どこが痛いのかすら分かりませんでしたが、とにかく痛いという感覚がそこにありました。

 

一旦、自転車から降りて冷静さを取り戻し、ゆっくりと自転車に跨るとまた激痛が。今度は痛みの場所が分かりました。これまでサドルに苛め抜かれた「お尻」が悲鳴を上げていたのです。

 

おい…この先どうやってこの尻痛と付き合っていけばいいのだ?と絶望するも、もう前に進むしかないのです。立ち漕ぎチャレンジ。

 

尻痛

そもそも何故こんな昔の話をする気になったかといえば、この記事を読んだからです。


www.hanzoumon.jp

 

この方の尻痛描写が私の過去の記憶を蘇らせるとともに古傷を疼かせ、呼んでいる最中からお尻の痛みを蘇らせてしまったため(本当に読んでるだけで痛くなった)、供養のために本記事を書いている次第です。

 

私も大概ですが、この人も無謀です。

 

宇都宮に到着

そこからの記憶は殆どございません。痛みと闘いながらがむしゃらに自転車を立ち漕ぎしていたら「宇都宮市」の看板が目に入り、駅までの距離を把握して安堵し、「宇都宮から実家までは走るのはやめよう」という決断を下したということだけ覚えています。

 

その後、駅までの道中にある100円ショップで、自転車を包めるビニールシートを購入し、自転車を折り畳んで宇都宮駅から実家の最寄り駅まで電車で移動しました。

 

確か18時代の電車に乗ったと記憶しておりますから、13時間ほどで130kmほどを走破したことになります。社会人になってから運動をする機会がございませんでしたから、我ながら無茶をしたものだと思っています。下手したら怪我をしていたかもしれないですよね。

 

おわりに

ちなみに実家には帰ることは伝えていましたが、自転車に乗って行くことは内緒にしていたため驚かれました。母は「あなたはやっぱりお父さんの遺伝子を受け継いでいるんだわ」と、褒められているんだか、貶されているんだか分からない言葉を頂きました。

 

その数年後、自分でもそう思ったエピソード

www.tonymctony.com

 

その後、全身の筋肉痛は1日で治りましたが、尻痛は実家から一人暮らしの家に帰っても暫く続きました。もしかしたら治療が必要な状態になっていたのかもしれません。

 

ちなみに折り畳み自転車は、実家に置いていきました。邪魔になっていたものだし、乗って帰る気にはなりませんでしたから…。その後は弟と妹が乗り回し、役目を終えたと聞いています。